恐怖のお風呂

「病院の見えないところ」
一般的に、病院を訪れる時といえば、診察、入院、お見舞いくらいでしょうか。こうしたときには、外来や待合室、病室やナースステーションといった明るく清潔な表側しか見ることは出来ません。ところが、病院には外部の人の目に触れないところがあります。そこは職員にしか見ることが出来ません。特に深夜の病院地下室などというところは・・・。

「当直医用のお風呂」
研修医時代を過ごした大学病院には、患者さん用のものとは別に、職員用のお風呂がありました。 それも、旧病棟の地下に・・・。 当直医専用というわけでもないのでしょうが、当直医師以外が使っているのは見たことがありません。

「お風呂への道」
ここに行くのは、すごく怖い。何しろこのフロアには、お風呂の他は、トイレは当然として、洗濯室や、機械室などで、およそ夜に誰かが仕事をしている空間ではないのです。しかも、ここの廊下は微妙に広く、地下なのに先には出口があり地上に通じるスロープがあります。このスロープは車が通れるようになっています。もちろんリネンなどの物資搬入のトラックが使うこともあるのですが、入院患者さんが他界した際の搬送車が横付けする目的もあるのです。ここの廊下は各病棟に直通しており、ストレッチャーが何度も往復したことでしょう。この廊下を通らないと、お風呂にはたどり着けないのです。
古い病棟でしたから、廊下は白いタイル張りで音が非常に良く反響しました。夜は電気も消えており、エレベーターを降りるとうっすらと非常等が瞬く、先の見えない昏い白い廊下が口を開けて待っています。魑魅魍魎が渦巻く化外の地といった趣のただよう廊下です。
別に一日くらいお風呂に入らなくてもどういうこともないのですが、翌日饐えた臭いをまき散らすのが嫌だったものですから、深夜お風呂に向かったのです。シャンプーやタオルの入った洗面容器を握る手に力を入れて、勇気を振り絞りエレベーターから第一歩を踏み出します。
まるで自分自身では、ホラー映画の主人公になった気持ちです。廊下の電灯のスイッチを入れて、天井の蛍光灯を点します。こういう時に限って、何故か電気の切れかけた蛍光灯があり、チカチカしています。長い廊下ですから、最後まで電気はつきません。廊下の交差点で、先の廊下の蛍光灯のスイッチを入れて、順番に点していくのです。人工の光で、物の怪を追い払うかのごとく。両側にある部屋の扉の窓は、暗く中をうかがい知ることは出来ません。コツコツコツと響く自分の足音以外に、ひんやりとしたものを時折感じながら、後ろを振り向かず進んでいきます。背後でエレベーターの閉じる音がします。逃げ道を失い、前へひたすら進むしかない我が身を案じながら、お風呂を目指します。

「お風呂にて」
ようやくの思いでお風呂にたどり着きますが、お風呂もお風呂で、何とも言えない微妙な空気を纏っています。誰かが使った直後なら、人のぬくもりも残っていそうですが、時間が経つと、そんな気配も露と消えてしまいます。
濡れて冷えたすのこのある脱衣所で服を脱ぎ、身を守るものは洗面器だけという不憫な状況で、これまた冷としたよく音の響く浴場に足を踏み入れます。足の裏が冷たいタイルに触れるからだけなのでしょうか。ほの昏い窓の外には何がいるのか、冷気の原因がそこに鎮座して、こちらを伺っているのか。
そんなもの存在するわけないという理性と、人間が古来暗闇から感じてきた気配を感知する感性の狭間で、体を洗います。湯船につかるのも惜しみ、さっさと上がり、再び脱衣所で体を拭きます。ポケベルの表示を確認して、呼ばれていなかったことを安心し、電気を消しながら元来た道を帰ります。電灯が消えた暗闇には目もくれずに・・・。

「慣れる」
人間というのは、恐ろしいものです。当初はこんなにおっかなびっくりで行っていたのに、何回か繰り返すと慣れてしまうのです。ろくろ首の話に出てくる魚屋の親父も、2度目には慣れてしまうものなのでしょうか。

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